IE9ピン留め

戦場に送られたくないわたしたちのための、戦争入門。
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筒井若水 『違法の戦争、合法の戦争:国際法ではどう考えるか?』

違法の戦争、合法の戦争 国際法ではどう考えるか? (朝日選書 (782))

筒井 若水 / 朝日新聞社


著者は、国際法の研究者。国際法上の戦争に関する国家への規制には、その「原因によるもの」と「手段によるもの」があることを示し、現在の国際連合を含む国際機関などを、そうした規制を行なう「公権力」と位置づける。

17世紀の西欧において、双方が絶対正義を掲げた宗教戦争が極めて悲惨な結末に至ったことを総括し、そこから「信教の自由」を認める「ウエストファリア条約」がつくられたことを紹介。戦争国際法は、原因の当/不当により当事者を選別するもの(ユス・アド・ベルム)ではなく、その手段を規制して惨禍を極小化するためのもの(ユス・イン・ベロ)であるということに端を発する、と著者は言う。だからこそ、国際法は「人道の確保」を最低限の目標とする。したがって、侵略行為など不当な戦闘行為により規制されるべき国家より、むしろそれを規制しようとして攻撃を加える国家に対してこそ、国際法による規制は必要。そう、著者は語る。

第二次世界大戦後、ファシズムに勝利した連合国側では、正しい原因に基づく戦争においては核の使用も含むいかなる手段を講じてもよいとする議論が一時大勢となった。しかしながら、朝鮮戦争の惨禍や大量殺戮兵器の開発・使用など、その後の歴史を経て、議論は再び手段の規制へとシフトした。

国際紛争の解決手段として戦争が続いていくのは、国際法に実効性を与える「公権力」が存在せず、国際連合もその役割を果たし切れていないためだと著者は言う。であれば、アメリカのように、圧倒的な戦力でどんな国家をも圧倒できる存在を「公権力」として認めることも、やむを得まい。著者のそうした立場には苦悩をも感じる。だが、イラク戦争後の国際/国内情勢を見るに、それほど悲観的に捉える必要もないように思われる。

国際法の父と言われる「グロチウス」や、「ハーグ陸戦条約」、赤十字について定めた「ジュネーブ条約」など、近代以降の戦時国際法の歴史を理解できる。日本国憲法の平和主義と国際法との矛盾にも言及している。末尾のQ&Aは、導入としてわかりやすい。(さとうかんじ)
# by plathome02 | 2009-03-01 00:05 | 平和のつくりかた

鎌仲ひとみ×肥田舜太郎 『内部被曝の脅威:原爆から劣化ウラン弾まで』

内部被曝の脅威 ちくま新書(541)

肥田 舜太郎 / 筑摩書房


ドキュメンタリー映画『ヒバクシャ』『六ヶ所村ラプソディー』などで知られる映画監督・鎌仲ひとみと、その被写体となった「被曝医師」・肥田舜太郎による共著。「内部被曝」とは、放射性物質を体内にとりこむことで長時間にわたって身体の内側から放射線を浴びること。それは、人間を人間たらしめる細胞の遺伝子を傷つけ、さまざまな器官の癌や白血病などの症状を引き起こす。またそれは、母親の子宮をもやすやすと通り抜けて胎児に蓄積し、影響を与えてしまう。

この「内部被曝」の影響を、第二次世界大戦下のアメリカは人体実験によっていち早く把握していた、という情報がある。原子爆弾が使用された際も「内部被曝」の被害は、情報統制のもと隠蔽され続けてきた。結果、多くの人びとにとって、広島・長崎に投下された原爆のイメージは、「爆発と同時に放射される強烈な放射線によって多くの人命を瞬時に消滅させる大量殺戮兵器」というものにとどまっており、体外から放射線を浴びる「外部被曝」の印象に占められている。同時に存在する「内部被曝」に関する正確な認識は、ほとんど共有されていないというのが現状だ。アメリカをはじめとする勢力は、今日なお一貫して「内部被曝」の人体への影響を認めていない。

そのため、現代社会では、いまだに放射性物質であるウランに依存したエネルギー技術が安易に使用されている。さらに、劣化ウラン弾の戦場投入にいたって、私たちを取り巻く状況が刷新された、と本書は語る。敵味方問わず「内部被曝」による被害をもたらす劣化ウラン弾は、原子力発電のゴミである核廃棄物を流用することで製造される。つまり、そのゴミを生み出す原子力発電に依存して生活している私たちもまた、劣化ウラン弾製造の当事者の一人なのだということだ。今日なお発信され続けている「劣化ウラン弾が撒き散らすのは微量な放射線で人体に影響はなく安全です」とのメッセージ。私たち一人ひとりが「内部被曝」を知り、自分自身の頭で「核」について考え判断する時期が来ているのだ。そう、この本は訴えかける。(さとうひろし)
# by plathome02 | 2009-03-01 00:04 | ヒロシマ・ナガサキの解剖学

中尾知代 『日本人はなぜ謝りつづけるのか』

日本人はなぜ謝りつづけるのか―日英“戦後和解”の失敗に学ぶ (生活人新書)

中尾 知代 / 日本放送出版協会


戦後和解や補償と聞いてまず思い浮かぶのは、「従軍慰安婦」や日本に「強制連行」された人たちのこと。しかし、本書で取り上げているのは、イギリス人の元捕虜をめぐる問題である。戦争を知らない若い世代にとっては、それは聞きなれない事柄だろう。

イギリス人の元捕虜問題とは何か。60年前、日本軍は、戦時中に東南アジアで捕虜としたイギリスの軍人たちに対し、劣悪な環境下で鉄道建設などに従事させ、その多くを死に至らしめたり心身に重大な傷を負わせたりした。このことについて、現在も、元捕虜やその家族たちが日本政府に謝罪と補償を求めているという問題である。

日本政府は、「この問題は補償を含めて国家間で解決済み」との立場を貫いている。しかし90年代後半、イギリスで元捕虜問題や戦争責任について日本に対する感情悪化が問題になると、政府は、当時の橋本首相によるイギリスの新聞への「お詫び文」掲載や民間の和解活動への支援などの対応を講じるようになった。特に後者は、元捕虜たちが日本を訪れて日本人と交流することで互いに理解し合う関係性を構築できたとして、戦後和解の成功例とされている。

著者はイギリスに渡り、15年に及ぶ元捕虜とその家族への取材・研究を行うとともに、戦後和解に向けた政治のプロセスを目の当たりにした。その上で著者は、日本政府の「お詫び」や民間和解活動の効果は不十分かつ限定的であり、元捕虜たちの心身の傷が癒されたとは言えず、日英戦後和解は成功したとは言えないと断じる。さらに、日英双方にとっては、過去の軍同士の軋轢を解消し、湾岸戦争やイラク戦争での軍事協力を円滑にするためにこそ和解が必要だったこと、つまりは、戦後和解そのものが、実は次の戦争のプロセスとなっていたと指摘する。

書名の「なぜ謝りつづけるのか」という問いの裏には、謝罪を求め続ける元捕虜たちの姿と、彼らに届く言葉で謝罪ができていない日本の姿がある。本書は、その間にある多くの問題と戦後和解の実態を示す良書である。(こんのとおる)
# by plathome02 | 2009-03-01 00:03 | 裁くことと、償うこと。

屋嘉比収[編] 『友軍とガマ:沖縄戦の記憶』

沖縄・問いを立てる (4) (沖縄・問いを立てる 4)

社会評論社


太平洋戦争末期、国内最大規模の地上戦が行われた沖縄。「国体維持」のために日本軍がとった「持久戦」という無謀な戦略に、多くの住民たちが巻き込まれ犠牲となった。本書は、「沖縄戦の証言/語り」「集団自決」「『ひめゆり』をめぐる語りのはじまり」「ハンセン病患者の沖縄戦」「住民スパイ視」など、沖縄戦を多様な視点から多角的にとらえた、若手沖縄研究者たちによる論集である。

何より興味深いのは、本書全体に通底する「集団自決」についての分析/考察である。文部省(現・文科省)と沖縄県民の「集団自決の解釈や認識の違い」が浮き彫りとなった教科書検定問題(1982年、2007年)についてはもちろんのこと、なぜ「集団自決」がおこったか、その背景にはどんな力が働いていたか、などが細かく提示される。中でも注目したいのは、「家族・親族単位の防空壕での集団自決が最も多く、犠牲者の83%が女性と子ども(満12歳以下)であった」という座間味島での「集団自決」の分析である。

「敵に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」―――日本軍からくり返し住民にもたらされた《憎悪発話》。そして、現実に敵を目前にしたとき、「自決」できない子どもをはじめとした「家族の中の弱者」をまずは手にかけ、自らは最後に「自決」することで日本軍の命令に応ずるという「家長」権力と、それに対する家族メンバーの隷属という構図が存在した。つまり「集団自決」とは、「お互いの殺し合い」などでは決してなく、国家から軍隊、軍隊から兵事主任、兵事主任から伝令、そして伝令から家長へと流れる号令系統が、戦闘の邪魔になる最も弱い者へと押し寄せた「権力による犯罪」であったのだ。

この「愛するがゆえの矛盾した行為」を、「馬鹿げている」と笑い飛ばすことができるだろうか。当時の「タテ構造の強制」の中に置かれていたら、きっとあなたもわたしも、同じ行動をとっていたかもしれない。戦争体験者が少なくなった現在、大切なのは「知識としての戦争体験」ではなく、その体験談と私たち自身が「どう向き合うか」だ。(まついあい)
# by plathome02 | 2009-03-01 00:02 | 社会空間としての軍隊/戦場

藤原帰一 『「正しい戦争」は本当にあるのか』

「正しい戦争」は本当にあるのか

藤原 帰一 / ロッキング・オン


本書は、音楽系の出版社ロッキング・オンの総合誌『SIGHT』に連載された、国際政治学者・藤原帰一へのインタビューをまとめたもの。戦争をめぐる二種類の議論――「正戦論」と「平和主義」――の双方に共通して見られる「非現実さ」が、浮き彫りにされている。

宗教的対立に起因する「正義のための戦争」が悲惨なものとなったことへの反省から、戦争を「正義」から切り離し、政策の道具として認めるという、リアリズムに基づいた戦争観が近代に生まれた。だがその一方で、戦争は一般大衆にとっては「死」に直結するものでもあったため、「戦争自体を否定する論理」もまた誕生し、それが戦争を「違法」化する法律や制度へとつながっていく。しかし、そこからさらに、「違法」な戦争を仕掛けてくる国家に対しては「自衛」が必要との議論が生まれ、それが、「世界秩序をつくる/民主化を進める」ためには武力介入が必要、というものへと発展する。著者によれば、それらは結局のところ宗教戦争時の「正戦論」への回帰にすぎない。戦争の是非を問う際に想定すべきなのは、悪い奴に制裁を下すといったことではなく、紛争の小さな芽を見つけ、第三者が仲介して当事者双方に矛を納めさせるような、地道な取り組みなのだ、という。

では「平和主義」はどうか。「必要なのは祈る平和でなく、つくる平和」と本書は語る。今の日本の「平和主義」は「一国平和主義」にすぎないため、「日本人が死なない」戦争への関心は極端に薄い。その証拠にイラク戦争への反応は、反対でも賛成でもなく、「無関心」が一番多かった。日本に住んでいる人が死なないアフガニスタンやイラクでの戦争はOKだが「自分たちが酷い目にあう戦争はイヤ」という「平和主義」は、簡単に「自分たちの安全を守るために軍事介入を」という「正戦論」に傾いてしまう。平和主義に必要なのは、現実主義的な視点である。そう、著者は指摘する。

平和を望むのはいいが、それが「現実」とはかけ離れた「ラヴ&ピース」だけに終始するのは問題である。世界各地で紛争が続いている現在、本書のように、戦争/平和について、「理念」ではなく「現実的」な視点から考え直す必要があるのではないか。(さとうあき)
# by plathome02 | 2009-03-01 00:01 | 9条のこれまでとこれから

P.W.シンガー 『戦争請負会社』

戦争請負会社

P.W. シンガー / 日本放送出版協会


戦争をおこすのは誰か。この問いには「国家」と答えるのが従来の一般的な回答であった。戦争をめぐる知的言説が、国民国家やナショナリズムの分析につながるのも、そうした発想ゆえである。だが、戦争と「国家」の結合は、決して普遍的でも通時的でもない。本書は、この問いをめぐって現代世界で進行中のある世界史的な変化について、刺激的なスケッチを与えてくれる。変化とはすなわち、戦争民営化である。

本書によれば、戦争を「国家」の独占事業とする形式が誕生したのは、たかだか400年前のこと。続く数世紀の間、民間軍事部門を機能解除しそれらを吸い上げる形で「近代国家」が発展。そうやって、戦争の公営独占が完成形に達したのが、冷戦(1945-1989)であった。だが、それは「西欧近代」以外の時代・地域にあっては、何ら自明のものではない。そこには常に、傭兵団や軍事企業家、勅許会社など、私的軍隊の姿があったためである。

前近代における「国家」の小ささが、私的な軍事行為の背景だとするなら、当然、ポスト近代における「国家」の縮小もまた、私的軍隊の台頭を促す苗床となるだろう。かくして、冷戦が終わり、暴力装置を抱え込むだけの財政的余裕と思想的根拠を「国家」が喪失すると同時に、安全保障の外注化=民営化が世界中で一気に進行し、あちこちで「民営軍事請負企業」――戦争と深く関連する専門的業務を売る営利組織――が莫大な利益をあげるようになる。経済のグローバル化もまた、それらを強く後押ししていった。

以上の見取図を踏まえ、本書はこの「戦争請負会社」の実態や類型、それが果たす社会的機能、利点や問題などを、豊富な事例をもとに論じていく。興味深いのは、戦争民営化に対する拙速な肯定/否定をともに避け、目を凝らしてその実態と意味とを見極めようとする、著者の姿勢である。軍事国家や軍閥、反政府集団だけでなく、国連やNGOなどもまたこれら「戦争請負会社」の顧客だという記述に触れるとき、私たちは、この問題の複雑さの一端に触れるだろう。戦争や暴力を個人や法人が手にできるようになった現代、私たちもまた、自らの常識を更新するために、本書の冷静さに学ぶ必要がある。(たきぐちかつのり)
# by plathome02 | 2009-03-01 00:00 | 戦争の現在形

三浦俊彦 『戦争論理学:あの原爆投下を考える62問』

戦争論理学 あの原爆投下を考える62問

三浦俊彦 / 二見書房


広島・長崎への「あの原爆投下」は正当であり、当時最良の選択肢だった。それこそがあの戦争を終わらせ、より多くの人びとの命を救ったのだ――アメリカでは、このような言説(ここでは「原爆投下肯定論」と呼ぶ)が公式見解となっている。一方で、戦後日本の平和主義は、大統領トルーマンの原爆投下決定を間違いとし、被爆者たちへの謝罪と反省を求めている(こちらは「原爆投下否定論」)。この二つの立場のうち、どちらが真に正しいのであろうか。この問いに、論理学という知的ツールで挑んだのが本書である。

議論においては、より信じがたい説を唱える側に立証責任が生じる。彼らが自説の正しさを立証できなければ、自動的に負けになるわけだ。原爆投下については肯定派が立証責任を負うのが妥当だろう。こうして本書では、否定派がまず立論し、それに対して肯定派が反論するというスタイルが採られている。「無差別爆撃とは悪だろうか」「被爆者のことを考えても原爆投下を肯定できるのか」など、本書が採用する否定派の立論は全部で62問にも及ぶ。読み進める=否定派の立論がことごとく潰されていくにつれ、私たちの前に驚くべき結論が姿を現し始める。それは、「原爆投下は正しかった」というものだ。

骨格のみ記す。帝国日本が戦争終結に踏み切った最終要因は三つある。第一が「ソ連参戦」。第二が「原爆投下」。そして第三が「天皇の免責」だ。タイミングを図っていた日本政府は、これら三点セットが出揃った時点でポツダム宣言を受諾、無条件降伏に至った。大戦末期に日本統治下のアジア各地で生じていた凄まじい飢餓や、予定されていた本土上陸作戦などを考えると、「原爆投下」が結果的により多くの人びとの命を救ったというのは、論理的に正しい。では、この極悪な事態を避ける方法はなかったのだろうか。その元凶は果たして誰だったのか。答えは、本書をひもとき、直接確かめてほしい。

論理学の入門シリーズの一冊、その応用編として刊行された本書は、論理思考の実践練習にも最適である。情緒や美学による動員手法が60年を経てなお健在なこの日本という場所で、安易に動員されずに生きていきたいあなた。本書は、そんなあなたにお勧めの一冊である。(たきぐちかつのり)
# by plathome02 | 2009-02-15 00:07 | ヒロシマ・ナガサキの解剖学

広田照幸 『《愛国心》のゆくえ:教育基本法改正という問題』

「愛国心」のゆくえ―教育基本法改正という問題

広田 照幸 / 世織書房


本書は、教育社会学・社会史的な視点から、「教育基本法改正」をめぐる言説、政治・経済と《教育》との関係性、そして、「愛国心」や「道徳」といった内容を教育基本法に明記しようという政治的な動きなどについて、分析し考察を加えた論集である。昨今のさまざまな教育政策の、長期的な視点で見た場合の弊害が仔細に語られる。著者は、近代日本の《教育》言説の分析を専門とする気鋭の教育社会学者。

「教育基本法改正」に関しては、改正推進論者からも反対論者からも多くの意見が提出されている。その多くは短期的な視点で書かれているものが多く、著者は、「愛国心・道徳教育がすべての教育問題を解決できる」とする改正論者の議論は「能天気な夢想」であり、「すべての児童・生徒が洗脳され戦争動員される」とする反対論者の議論は「心配症の悪夢」にすぎないという。「教育基本法改正」の影響は長期的な視点で考察しなければならないのだ。

二つの問題点について紹介したい。一つ目が、児童・生徒の「心」を徹底して教育しようとする試みの「失敗を重ねることから起きる悪循環・悪影響」である。「心」に関する教育は、すべての児童・生徒に同じように受け容れられるわけではなく、「失敗」を生む。この「失敗」が「より濃密な教育」を導き入れる土壌となっていく。儀式・儀礼に始まり、学校行事や特別活動、各教科の中へと、学校生活全体にしかけが入り込むことになりかねない。二つ目は、「教員の萎縮と自己規制」であり、これはすでに「国旗国歌法」制定から進行している。「職務命令」という強制や「指導力不足教員」と烙印を押しての排除が行なわれており、「教育基本法改正」によりこれらに拍車がかかると、教育現場では素直で「正しい教員」だけが教鞭をとることになってしまう。

本書が発行されたのは2005年9月。翌2006年12月には「改正教育基本法」が制定されてしまった。その影響は、家庭教育や少年事件などの「教育問題」に付随する形で少しずつ現れる。短絡的な対策案や近視眼的な暴論を見抜く目を養うためにも、本書は有効に活用できるはずだ。(まつむらゆうき)
# by plathome02 | 2009-02-15 00:06 | ココロ/カラダの動員

山室信一 『憲法9条の思想水脈』

憲法9条の思想水脈 (朝日選書823)

山室 信一 / 朝日新聞社


憲法9条に関しては「条文をどう解釈するか」「自衛権や米軍基地をどう考えるか」などの多くの難問がある。これらを考える上でも、まずは9条とは何であるかを知らなければならない。法制・思想史を専門とする著者は、「9条を知るためには、それが定めている戦争放棄や軍備撤廃などの思想や理念が生み出されてきた歴史について辿り直してみることが必要」と語る。この問題意識のもと、西欧における近代主権国家確立後の非戦思想と日本における明治以降の非戦思想が考察される。

近代主権国家が確立して以来、軍事力が拡大される一方で、戦争廃絶や平和論の思想も息吹を挙げる。19世紀後半には「戦争違法化」「集団安全保障」への国際的な動きが存在した。明治日本でも、非戦の思想がすでに日本人の間で発せられていたが、国内に存在した非戦論やそれを謳う団体は、日清戦争・日露戦争下で弾圧を受ける。とはいえ、続く第一次世界大戦の後には、「国際連盟」設置や「不戦条約」など平和主義を求める世界的な動きが日本にも波及し、1920年代には非戦思想の国際的な連携も見られた。

しかし1930年代に入ると、そうした平和運動や非戦思想は沈黙を強いられるようになり、「不戦条約」も空文化されていく。満州事変をきっかけに生まれた「自衛権」の拡大解釈がそうした流れを加速させた。結果、二回目の世界大戦を抑止できなかった。

戦後に採択された「国際連合憲章」では、徹底した戦争違法観が表明されたが、そこでも「集団的自衛権」という概念が設けられ、戦争廃止の制度化は進んでいない。他方において、日本や欧米での戦争非合法化の思想を受け継ぐ形で、戦争放棄・軍備撤廃と国際協調を基軸とする憲法9条が誕生した。

著者は、憲法9条は「突然変異なもの」ではないし「一方的に「押しつけ」られた」ものでもないという。憲法9条には何が流れ込み、何が受け継がれてきたのか。その「思想水脈」を辿ることから得られる知識は、今後の動向を見極める上でも有益に使えるはずだ。(まつむらゆうき)
# by plathome02 | 2009-02-15 00:05 | 9条のこれまでとこれから

竹中千春 『世界はなぜ仲良くできないの?:暴力の連鎖を解くために』

世界はなぜ仲良くできないの?―暴力の連鎖を解くために

竹中 千春 / 阪急コミュニケーションズ


タイトルは、平易な言葉によるシンプルな質問である。それは私たちに、自分なりにものごとをきちんと理解し判断しようという気持ちをおこさせる。国際政治学が専門の著者は、「なぜ」と訊いていく姿勢を大切にしている。それが民主主義の原点であり、国際政治論の原点であると考えているからだ。

著者は、この地球上には「危険で貧しい世界」と「安全で豊かな世界」の二つの領域が存在しており、両者は大きく分裂していると捉える。後者の世界に生きる私たちの多くは、毎日続く戦争やテロの報道に疲れて考えることをやめてしまっている。しかし著者は、そのことを責めるのではなく、そうした私たちの事情を理解した上で、私たちを、自分たちが生きている世界について一緒に考え、自身の目で発見し直すための旅へと連れて行ってくれる。

この本ではまず、暴力がどこでおこるかを示し、暴力を構成する6つの要素や、暴力の空間、暴力を生む貧しさ、暴力の連鎖といった「暴力の構図」を明らかにする。次に、イスラエル・パレスティナ紛争、イラン革命、イラン・イラク戦争などの「紛争の地図」をやさしく丁寧に解説。その上で、現代世界の暴力について、普通の市民の視点からどう対処するか、どうすれば暴力をとめることができるかを、一緒に考えていく。著者によると、暴力をとめたいと思うきっかけは「あ、痛い」と感じることであるという。多くの人たちがそう感じることによって他人の痛みを共有し、安全/危険や豊かさ/貧しさの格差を乗り越え、さらに国境を越えて仲間意識をつくることができる。その可否が暴力をとめる鍵なのだそうだ。また、それは同時に、暴力に依存した社会構造を変えることに他ならず、民主主義社会では、ごく普通の市民がその担い手であるとも書いている。

母親が、「私にはわからないから」と自分の殻の中にひっこんでしまいがちな子どもに対し、その力を信じながら一緒に考えることで、彼(女)を広い世界へといざなう。そんな一冊である。(さとうひろし)
# by plathome02 | 2009-02-15 00:04 | 平和のつくりかた

佐藤卓己 『八月十五日の神話』

八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)

佐藤 卓己 / 筑摩書房


日本の終戦はいつかと聞かれたら、あなたはどう答えるだろう。私は迷わず8月15日と答えていた。この本を手にするまでは。

本書は、新聞の終戦報道、お盆のラジオ放送、歴史教科書の終戦記述などを取り上げ、「8・15=終戦」の記憶がどのように作られ、変容したかを明らかにするものである。

日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日。そして連合軍への降伏文書に署名をしたのは9月2日である。つまり、太平洋戦争が終結したのは9月2日なのだ。しかし我々は、何の疑いもなく「終戦は8月15日」と思い込んでいる。これは一体なぜなのか。

まず明記しておきたいのが「8・15終戦記念日」の法的根拠は、1963年5月14日に閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要項」であるということ。戦後18年も経過してから「誕生」したのだ(終戦記念日の正式名称「戦没者を追悼し平和を祈念する日」は、1982年に閣議決定された)。しかしこれらの法的根拠を知らないだけで、我々が「8・15=終戦」と思っているわけではない。「その記憶はメディアによって創られた」と著者は指摘する。

例えば、毎年「終戦特別番組」として企画されるドラマ。玉音放送を聞きながら、人々がラジオの前で泣き崩れる姿が繰り返し象徴的に描写されてきた。こうして戦後の日本は、8月15日に意味を持たせることで、意図的に9月2日から目を背けてきた。戦後日本人は、「あれは敗戦や降伏ではなく終戦だったのだ」と思いたかった。日本政府も同じ心境であった。メディアは、その国民感情と政府の意思を巧みにすくいあげ、「8・15=終戦日」と刷り込むことに成功したのだ。

もしあの玉音放送が別の日だったとしたら、その日こそが「終戦記念日」になっていたであろう。ではなぜ「玉音放送」と「終戦」がワンセットでなければならないのか。その意味や背景を知りたい方に、本書はおすすめの一冊である。(まついあい)
# by plathome02 | 2009-02-15 00:03 | メディアがつくる戦争

牛村圭×日暮吉延 『東京裁判を正しく読む』

東京裁判を正しく読む (文春新書)

牛村 圭 / 文藝春秋


本書は、比較文化・文明論専門の牛村圭と、日本政治外交史専門の日暮吉延という二人の研究者が、東京裁判について「事実」をもとに諸問題の捉えかたなどを論じたものである。 

東京裁判(極東国際軍事裁判)とは、連合国11ヵ国が、戦争犯罪人として指定した戦前期日本の指導者28名(いわゆるA級戦犯)を東京軍事裁判所に起訴した戦争犯罪裁判のことである。それをめぐる議論においては、現在に至るまで「文明の裁き」(肯定)論と「勝者の裁き」(否定)論が正面衝突してきた。前者は、日本の侵略・残虐行為の責任を「文明」的な裁判形式で追求したものとして評価するものであり、後者は、「平和/人道に対する罪」によって指導者を裁くのは事後法に過ぎないため、裁判は勝者の「政治的報復」にすぎない、と捉えるものだ。

現在に至るまで、肯定論も否定論も過度の単純化をしてしまい「互いの解釈に対する批判」を繰り返すに過ぎなかった。東京裁判自体が「11ヵ国が参加した国際裁判」という非常に複雑なもので、簡単に判断することができない「ハイブリッド(混合的)」な出来事であり、「文明」と「勝者」どちらの側面も併せもっている。故に「無茶な二元論」は事実から遠ざかった非生産的な議論である。二人の著者は「一次史料の重要性」を説き、二者択一の単純化したパターンにはまらない実証的な議論を今後は行う必要がある、と語る。

東京裁判に限らず、戦争に関する議論においては、物事が「単純化」され、「冷静な議論」が行われていないような事例が数多く存在する。そんな中、著者たちのように「事実に基づき」「ハイブリッドなまま」議論を行うという姿勢は、国際情勢が厳しくなる今、私たちにとっても欠かせないものではないだろうか。

なお、二人の著者は、それぞれが東京裁判を扱った新書を執筆している(牛村圭『勝者の裁きに向き合って』ちくま新書、2004年、日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書、2008年)。東京裁判について興味をおもちの方には、こちらの二冊もぜひお勧めしたい。(さとうあき)
# by plathome02 | 2009-02-15 00:02 | 裁くことと、償うこと。

松本仁一 『カラシニコフⅠ』

カラシニコフ I (朝日文庫)

松本 仁一 / 朝日新聞出版


朝日新聞特派員として、数々の紛争取材に携わった著者による、迫真のルポルタージュ。「カラシニコフ」に翻弄される国家や人びとを描く。

そもそも「カラシニコフ」とは、旧ソ連軍の設計技師ミハイル・カラシニコフが、1947年に開発した自動小銃。「AK47」とも呼ばれる。その後、改良モデル「AKM」、「AK74」が造られた。その「カラシニコフ」が実戦で最初に使われたのは、1956年の第二次中東戦争。その後、第三次中東戦争、第四次中東戦争、ベトナム戦争と、世界中に「カラシニコフ」の舞台が広がっていく。しかも「カラシニコフ」は、開発から半世紀が過ぎた今も、現役で使用されている銃だ。

この「カラシニコフ」の特徴は、故障が少なく手入れが簡単なため、粗野で無教育な兵士にも使いこなせるという点にある。三週間もあれば、射撃の方法、銃の分解と掃除、組み立てなどが11歳の少女にもできてしまう。それが、未熟な子どもにも銃の操作を容易にした。そんな「カラシニコフ」があったからこそ、「子ども兵」が生まれたともいえる。しかも、交戦になると「子ども兵」たちが、最前列に出され弾よけがわりにされる。その銃で命を失うのは、大人の兵士よりむしろ、「子ども兵」や女性などの非戦闘員に多い。

かつて「カラシニコフ」は、植民地解放闘争の主役だった。アルジェリア、ベトナム、キューバ、アンゴラ、モザンビーク、「カラシニコフ」が生み出した新しい国は数多くある。しかし今、その国の多くが不安定化し、銃の氾濫に悩み、怯える。例えば、シエラレオネの場合、戦車でも空爆でもなく、「カラシニコフ」だけで崩壊した。武力だけで成り立つ国家は、わずかな武力で簡単に転覆する。だからこそ、国家が武力をコントロールしなければならない。ところが、「カラシニコフ」はそれが非常に困難な兵器なのである。

「カラシニコフ」――人はそれを「悪魔の銃」と呼ぶ。「カラシニコフ」が世界中で何をしてきたのか、その現実を確認してほしい。(かめやまゆうき)
# by plathome02 | 2009-02-15 00:01 | 社会空間としての軍隊/戦場

林博史 『BC級戦犯裁判』

BC級戦犯裁判 (岩波新書)

林 博史 / 岩波書店


第二次世界大戦後に連合国側によって裁かれた「A級/BC級戦犯」。主に政府や軍の指導者が対象とされ「平和に対する罪」と呼ばれる開戦責任を問われた「A級戦犯」に対し、「BC級戦犯」は、個々の残虐行為に関わった者たち(命令者から実行者まで)が対象で、捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」(B項)、一般市民に対する大量殺戮や奴隷化などの「人道に対する罪」(C項)を問われた。

この「BC級戦犯」を裁いた戦犯裁判については、これまで、「連合軍捕虜に対する日本軍の残虐行為だけが裁かれた」とか「上官の命令に従っただけの下級兵士までもが極刑に処せられた」とか「被害者のアジア人が加害者の日本兵を感情的に裁いた報復裁判」などというイメージで語られてきた。しかし、歴史学者である著者は、アジアのさまざまなで国々で実施された「BC級戦犯裁判」の豊富な事例の検討に基づき、そうした単純化された像を避ける。

例えば、「単なる報復裁判」との批判には、被害者の人びととは別の集団が裁判を行なった「シンガポール華僑粛清事件」の事例を対置。「日本人だけが裁かれた」と言っても単純ではなく、朝鮮や台湾、サイパン、テニアン、南樺太などの人びとが、日本人同様に「戦犯」とされた例があることも紹介する。また、戦犯裁判の不公平さをあげつらう議論に対しては、残虐行為を拒絶し敵国民をかばった日本軍人の存在などを勘案して、できるだけ公平に裁こうとした「BC級戦犯裁判」から学び教訓化できることは多い、と力説する。

戦争下、残虐行為に加担しないことは難しかっただろう。だからこそ、今後そうならないための歯止めとして、戦争遂行上許される行為とそうでない戦争犯罪の区分けを試みた「BC級戦犯裁判」には(手続き上の問題は多々あったにせよ)意味があるのだという。他にも、連合国の裁判と処罰がアジア民衆の怒りを抑え報復をやめさせる効果をもったことなど、戦後史に与えた影響についても言及がなされる。「戦犯裁判」を複眼的に読み解くための格好の見取図を、本書は与えてくれるだろう。(さとうかんじ)
# by plathome02 | 2009-02-01 00:05 | 裁くことと、償うこと。

大沼保昭 『「慰安婦」問題とは何だったのか』

「慰安婦」問題とは何だったのか―メディア・NGO・政府の功罪 (中公新書)

大沼 保昭 / 中央公論新社


本書は、「アジア女性基金(女性のためのアジア平和国民基金)」の検討を通して「慰安婦」問題を考察する一冊である。「慰安婦」とは、1930年代から1945年にかけて、日本軍が進出したアジアの各地において、日本軍将校の性的欲望を満たすために日々性交を強いられた女性たちを指す。

「アジア女性基金」とは、元「慰安婦」364名に対し、総理のお詫びの手紙と医療福祉支援、そして国民からの募金による償い金を届けるという形での日本からの「償い」の実施を目的とした財団である。1995年に結成され2007年に解散した。「基金」の理事会や運営審議会は、すべてボランティアの市民で構成され、事務費や広報費は国家予算から捻出された。

国家補償には時間もかかり実現の可能性も低い。元「慰安婦」たちの高齢化が進む中で、「基金」は「慰安婦」への償いを何とか形にしたものだったが、多くのメディアやNGO団体は「償いは政府がやるべき。国民からの募金は問題のすり替えだ」と非難した。

「基金」の側に、その理念や被害者の実像を伝える広報の致命的な弱さがあったことは確かである。しかしながら、償いは政府だけが行えばよいものなのだろうか。筆者は「戦争にはマスメディアや知識人を含めて国民も関与したのであり、その責任は一内閣にのみ委ねられるべきではない。国民一人ひとりが過ちへの自覚をもって償うべきである」と主張。代案がない限り、「アジア女性基金」とその償いかたを拒否することは、償うこと自体の拒否に等しいのだということを説いている。

「慰安婦」の現状把握や被害者認定は慎重に行われなければならない。「基金」を非難するメディアやNGOに、自らの言動が被害者たちの尊厳を傷つけてしまうことへの自覚が果たしてあっただろうか。彼らの「慰安婦」問題への関わりかたには、主体性の欠如に由来する弊害が含まれていた。

21世紀の政府やメディア、NGOは、自己の長所を磨きつつ欠点を改め、相互補完的に公共的役割をはたしていかなければならない。「慰安婦」問題から私たちが学ぶべき課題はそこにある。情熱と信念ゆえに苦しさをも味わった著者は、そう訴える。(こばやしみずほ)
# by plathome02 | 2009-02-01 00:04 | 裁くことと、償うこと。

杉原達 『中国人強制連行』

中国人強制連行 (岩波新書)

杉原 達 / 岩波書店


私たちは、今なお残る「大東亜共栄圏」の爪痕を認識できているだろうか。本書が描く「中国人強制連行」という視点からも、戦後補償問題の未解決部分の多さを思い知ることができる。

本書は、戦後すぐに編纂された「事業場報告書」や「外務省報告書」の報告と合わせて、その他多数の文献と綿密な聞き取り調査や現場訪問によって中国人強制連行の実態を描き出している。

第二次世界大戦中、強制連行された中国人の数は4万人。日本の135カ所の労働現場へ運ばれ、6830人が死亡している。彼らは捕虜(当時は「俘虜」と呼ばれた)、農民、商人などで、くらしの中から、またくらしを守る闘いの中から突然家族と切り離され、「俘虜収容所」という名の強制収容所に集められ、「契約労働者」という身分で日本に送り込まれた。

例えば、西松組(現西松建設)に使役された360人のうちの63人は、闇から闇へと連行されている。ある人は市場からの帰り突然日本兵に襲われた。報復討伐を受けた八路軍の兵士もいる。彼らが連行された地は、侵略と抗日が日常的にせめぎ合っていた場である。強制連行された当人には、日本での劣悪な待遇と労働による病気ないしは死が、残された家族には、労働力を失い物ごいするしかない悲惨な生活が待っていた。強制連行は、本人はもちろん、家族にも、癒すことのできない傷跡を残し続けている。

秋田県花岡町(現大館市)では、強制連行された中国人986人が、鹿島組での厳しい労働を強いられた。劣悪な労働・生活条件と中国人による蜂起により、418人が死亡している。2000年に入って鹿島が「花岡平和友好基金」を創設、986人の全体解決をはかるという和解が東京高裁で成立したが、和解は通過点でしかない。ここで起きた過ちと悲しみを、21世紀における平和につなげることが課題として残る。

先日、西松建設の海外事業における多額の裏金や不正が明るみに出た。戦後60余年、国家と企業がつるんで悪さをするという体制は変わっていないのだろうか。(こばやしみずほ)
# by plathome02 | 2009-02-01 00:03 | 帝国のリアル

三崎亜紀 『となり町戦争』

となり町戦争 (集英社文庫)

三崎 亜記 / 集英社


「となり町との戦争のお知らせ」。町の広報紙に小さく載ったとなり町との戦争の開始を知らせる記事。その開戦の日時を過ぎても、人々は平穏なまま普段と変わらない日々を送っていた。それは、会社員である主人公にとっても、彼が町役場により偵察任務を命ぜられた後でも、同じことだった。目に見える流血も敵兵も銃弾も戦闘の痕跡さえもない。それでも、広報紙に発表される戦死者は静かに、そして確実に増え続ける。本書は、じわりと恐怖が迫ってくるような「見えない戦争」を描いた小説である。

町役場の主導によりきわめて事務的に進められていく「公共事業」としての戦争。その中で町の住民たちは、そんな戦争に対して、歓迎こそしないが「仕方のないこと」として、大した抵抗もなく受け入れてしまう。関心があるのは自分たちの日常の利害に関すること。そこには自分以外のことへの無関心さが表れるだけで、戦争に協力する当事者としての意識がすっぽり抜け落ちている。

日常生活の中で、私たちは戦争をどこか遠いものとして捉えていないだろうか。テレビの向こう側、遠く離れた場所での出来事だと。身近に戦争の影を見ること、感じることができないから、戦争というものを実感できない。今も世界のどこかで戦争が行われていると知っていても、自分のこととは遮断して考えてしまう。自分とは無関係に思えてしまう。前述の住民たちや、すぐそばで起きているはずの戦争に現実感を抱けない主人公は、メディアから情報として入ってくる戦争を切実なものとして感じ取ることができない私たちと重なるようだ。

本書はフィクションである。しかし、私たちの住んでいる町で、市や県で、さらには国で、本書のように戦争が起こらないという保障はどこにもない。本当は自分の気づかないところで、戦争の影がにじり寄ってきているのかもしれない。鈍感であり続けること、知ろうとしないことこそ恐怖なのだ。戦争は、「日常と切り離された対極にあるのではなく、日常の延長線上にある」のだから。(きじましおり)
# by plathome02 | 2009-02-01 00:02 | 戦争の現在形

森達也×姜尚中 『戦争の世紀を超えて:その場所で語られるべき戦争の記憶がある』

戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある

森 達也 / 講談社


イエドヴァブネ、アウシュビッツ強制収容所、ザクセンハウゼン強制収容所、ヴァンゼー会議場、市ヶ谷記念館、ソウル、韓国・戦争記念館/独立記念館、そして、朝鮮半島を南北に分断する北緯38度線。本書は、ドキュメンタリー映画監督の森達也と政治学者の姜尚中の両氏が、これらの「戦争の痕跡」を訪ね歩きながら、今もなお絶えない戦争や暴力について語り合った対談集である。

「テロや虐殺、そして戦争には共通するメカニズムがあるのではないか」。語られる場所は違えど、徹頭徹尾この問いがちりばめられている。しばしば「悪の代名詞」のように語られるナチス・ドイツであるが、イエドヴァブネで行われたポーランド人によるユダヤ人の大量虐殺は、普段は善良で優しい人たちが行ったもの。「殺す側」=「絶対悪」という方程式は成り立たない。ましてや宗教や文化の違いなどというステレオタイプな語彙では説明がつかない。明確な悪意がないと同時に、明確な動機すらもない。だとすれば私たちだって、置かれた環境によっては「殺す側」の当事者になる可能性が十分に出てくる。他人事ではない話だ。

ではなぜ「普通の人たち」が「大量虐殺」という残虐なことが出来たのだろう。「戦場や虐殺の場では一人称の主語を保つ回路が停まってしまっている」――森はこう語る。主語を喪失してしまっているからこそ、リアルな感覚が欠落して、今の自分からは隔離してしまう。結果、「普通の人たち」は人を殺すところまで駆りたてられてしまう。そして全てが終わってから「なぜ自分にあんなことができたのだろう」と振り返るのだ。

「狂気」とか「悪魔のような」とか、自分たちとは違う価値基準の中に彼らがいたように考えるのは簡単だ。加害側に思いを馳せねばならないのに、結局は「許せない」という「主語のない述語」で終わっている。これでは、戦争や虐殺はなくならない。だからこそ私たちは、歯を食いしばってでも戦争や虐殺の特異性を普遍化しながら自分たちの問題にしていかねばならない。(まついあい)
# by plathome02 | 2009-02-01 00:01 | 無垢なる大衆?

藤野豊 『強制された健康:日本ファシズム下の生命と健康』

強制された健康―日本ファシズム下の生命と身体 (歴史文化ライブラリー)

藤野 豊 / 吉川弘文館


ナチス・ドイツ、ファシスタ・イタリア、そして天皇制ファシズム。これらファシズム国家をその他の国々からわかつメルクマールとは何であるか。

政党政治の否定や統制経済、軍国主義、ナショナリズムなど、国家の「苦痛や死を与える権力」としての側面にその答えを見出そうとする従来の研究傾向に対し、著者が提示するのは、医療・衛生政策や人口政策など、国家の「生かし管理する権力」という側面である。ファシズム国家は、国民の身体=人口を「人的資源」として有効活用するため、極端な優生学的人口政策を実行し、国民には健康と強靭な体力・精神力の保持を義務付け、それを果たし得ない病者や障害者を社会から排除していった。本書では、日本ファシズムを事例に、それらの実態が細やかに描かれていく。

概要のみ記す。日中戦争開始の翌年、陸軍主導で、国民の体力強化と思想教化を目的とした「厚生省」が設置され、国民の生活空間において「厚生運動」(「健全な娯楽」強制など、国民余暇の管理をめざす官製運動)が波及していくことになる。「建国体操」浸透もその表れのひとつだ。また1942年には、それに覆いかぶさるような形で、「建民運動」(国民体力の練成をめざす官製運動)が波及。それと連動して、国立公園や温泉地などの「建民地」化=心身鍛錬場化が進んでいく。

これら官製運動を自発的に支えた「模範的な」国民たちの一方で、「建民」になれなかった人びと(被差別部落住民、在日コリアン、ハンセン病者)や「不健全な娯楽」の供給源として生きていた人びと(娼婦)もまた存在した。彼らは「厚生事業」の名のもとで、戦争動員用の「人的資源」としての有効活用を図られた。被差別部落住民への「満洲移住」強要や娼婦の「従軍慰安婦」動員などはその一例である。

こうした、国家による国民の身体=人口管理政策の基本的な発想や手法は、戦後も決して弱まることはなく、現在に至る。私たちのファシズムは、まだ終わっていない。(たきぐちかつのり)
# by plathome02 | 2009-01-18 00:07 | ココロ/カラダの動員

倉沢愛子 『「大東亜」戦争を知っていますか』

「大東亜」戦争を知っていますか (講談社現代新書)

倉沢 愛子 / 講談社


インドネシア在住の著者による本書は、日本の侵略を受けて大きく運命を変えられた現地の人びとからの聞き取りに基づいたオーラル・ヒストリーの記録である。同時にそれは、母としての著者が、日本の歴史を知らずにインドネシアで育った娘へ宛てた語りでもある。そのため、各章のはじめに娘へのメッセージが置かれ、その後に本文が続く、という構成となっている。

著者が、本書であえて「大東亜」という言葉を用いるのは、日本とアメリカとの戦争に矮小化されがちな「太平洋戦争」の呼称では捉えきれない「事実」に光を当てるためだ。戦前から東南アジアに居住していた在留邦人、欧米列強の植民地支配と戦うために日本に協力を求めた民族独立運動の指導者、日本に協力した現地の有力者、経済的支配のために進出した日本企業の従業員、捕虜となった人びと、そして東南アジアの農村の住民、「従軍慰安婦」や「労務者」として働かされた人びとなど、戦争に巻き込まれたさまざまな「ひと」の体験や生活の姿を通して、著者は「大東亜」戦争を描き出す。そこには確かな「事実」がある。

本書の問題意識の核にあるのは、「歴史教科書問題」などに見られるような、アジア侵略を美化する日本国内の動きに対する危機感である。戦争を肯定的に捉えるこれらの史観では「日本がアジア諸国を独立に導いた」などと主張されるわけだが、著者は、戦後に宗主国だったオランダとの4年間にわたる外交や戦闘の末に真の独立を達成したインドネシアを例に、東南アジア諸国の独立が日本による支配とは別の理由で成立していることを証明してみせる。そして、「大東亜」戦争を、日本がアジアを解放したものなどでは決してなく、帝国主義諸国が領土の再分配を求めて戦った戦争、と明確に定義するのである。

歴史を歪曲するという後世世代の愚行への憂いが行間ににじむ。市井の人びとの声に耳を傾け「事実」を自らの手で捉えて伝えようとする著者の言葉は、重く鋭い。本書は、母から娘への語りであるとともに、実体験としての戦争を知らない日本の若者へ、ありのままの戦争の姿を伝える言葉でもある。(こんのとおる)
# by plathome02 | 2009-01-18 00:06 | 帝国のリアル

板垣邦子 『日米決戦下の格差と平等:銃後信州の食糧・疎開』

日米決戦下の格差と平等―銃後信州の食糧・疎開 (歴史文化ライブラリー)

板垣 邦子 / 吉川弘文館


著者は、戦時期日本の社会史を専門とする歴史家。太平洋戦争下の銃後生活――食糧の配給、疎開、空襲被害など――について語られる場合、従来、その多くは大都市の視点に偏りがちであった、と著者は語る。本書は、長野県を舞台に当時の新聞各紙を史料とし、地方の視点から、太平洋戦争と戦後4ヶ月あまりの農村や地方都市の生活の様子を描くものである。「決戦下の格差問題」「決戦下の食糧事情」「総力戦と平等志向」「敗戦の光景」「平等社会の追求」の全5章から成る。

当時、「上流・中流階層以上と大衆、都市と農村、男性と女性の間には生活や生活意識の面で大きな格差があった」とのこと。例えば、家と田畑を往復する生活が大半で、衣服新調など後回しだった農村女性からは、身なりに気を遣う経済的・時間的余裕をもち、良質な生地のモンペを着こなして農作業に従事しようとしない都市からの女性は、非難の的となっていた。他にも、大都市偏重の食糧行政や「飢餓供出」、農村に押し付けられた疎開人口の重圧など、都市・農村交流の増大が、格差の存在を白日の下にさらけ出した。

そうした格差は、一方で、強烈な平等志向をも生み出した。戦時下の社会情勢が、特定の職業に対する差別を払拭した例も挙げられている。例えば、それまで卑賤視の対象だった労働者は「職工」から「産業戦士」に、製炭者は「炭焼き」から「山の戦士」に、呼びかたが変わった。女性や子どもの社会的な地位も向上した。しかし、銃後社会の平等志向の本質は、全ての階層、全ての地域が、平等に「労苦や不自由」を押しつけられる、下位者を基準とした果てしない平準化である。大衆のそうした制御不能な欲望が、配給制度や翼賛壮年団運動、さらには戦後の徹底的な農地改革を生み出したのだという。

著者は「史料として参考にした地方版の新聞の記事は、国民の戦意喪失を防ぐため脚色された気配はあるものの人々の生活に密着しており、なおかつ個人が書いた手記よりも社会全体を見渡せる利点がある」と語る。本書を踏まえ、現在の新聞に見える社会の共通点を探ってみるのも面白い。(こばやしみのり)
# by plathome02 | 2009-01-18 00:05 | 無垢なる大衆?

清水俊弘 『クラスター爆弾なんてもういらない。』

クラスター爆弾なんてもういらない。―世界から兵器をなくすみんなの願い

清水 俊弘 / 合同出版


戦争では、戦争当事国の兵士だけではなく、現地住民も命を落としている。しかも、それは戦時中に限らず、残された地雷や不発弾による被害も多いという。本書は、そうした被害を引き起こす「クラスター爆弾」の恐ろしさと、それをなくそうとする人びとの取り組みを描いたものだ。

そもそも「クラスター爆弾」とは何か。「クラスター」とは、葡萄の房のこと。一発の親爆弾の内部に数百万の小爆弾が収納されており、親爆弾が空中で爆発するとそれらの小爆弾が地上にばらまかれるというしくみである。やっかいなのは、ばらまかれた子爆弾の多くはその場で爆発せず、不発弾になってしまう確率が極めて高いということだ。田畑や沼地、森林など、柔らかい場所に落ちた子爆弾は不発弾になりやすい。それらは、現地の人びとが生活のために足を踏み入れなければならない場所だ。農作業の途中で、または救援物資だと思って手にして、あるいは子どもが遊ぼうとして爆発してしまった等の事例が後を絶たない。被害者の98%が民間人だという。

これらの悲劇をとめるために、世界中の50か国の200を超えるNGOや市民団体が協力して、2003年にクラスター兵器の規制・禁止を目指すキャンペーン「クラスター兵器連合」を発足させた。同年の締約会議国会議では「特定通常兵器の使用禁止・制限に関する条約」は制定されたものの、「クラスター兵器」の使用禁止にまでは至らない。その後さらに時間をかけ、2008年「クラスター爆弾禁止条約」が制定されたが、会議に参加していたにも関わらず、日本政府は協力的ではなかったという。日本も「自国防衛のため」という名目で「クラスター爆弾」を製造・所持していたためである。それだけでなく最後まで首を縦に振ろうとしなかったらしい。

条約ができたとはいえ、反対する国も存在している。完成した条約も「子爆弾の数が10個以下なら造ってもOK」とある。軍事技術が発展している現在では、技術的な条件をつくりかえて、新しい爆弾を産み出すことだって考えられる。その点で、まだまだ油断はできない。私たちの社会に必要なのは、「兵器をつくる」ことではなく「平和をつくる」ことなのだから。(ししどこうすけ)
# by plathome02 | 2009-01-18 00:04 | 戦争の現在形

高木徹 『ドキュメント 戦争広告代理店』

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)

高木 徹 / 講談社


本書は、NHKスペシャルで放送されたドキュメンタリー番組「民族浄化――ユーゴ・情報戦の内幕」に、その後の情報などを加えて書籍にしたものである。ボスニア紛争(セルビア中心のユーゴスラビア連邦とボスニア・ヘルツェゴビナとの争い)において、アメリカのPR企業「ルーダー・フィン社」が、ボスニア・ヘルツェゴビナをクライアントに「影の仕掛け人」として活動し、「情報戦争」に勝利するまでを描く。

紛争後、ボスニア・ヘルツェゴビナには各国から物資が流れ込み、首都サラエボには美しい街並みが広がっている。対照的にセルビアの首都ベオグラードは、NATOの空爆を受けた当時のまま瓦礫の山が放置されている。これほどの差が生じた訳は、前者が「情報戦争」に勝利したためである。

最初はボスニア・ヘルツェゴビナの場所すら知らなかったアメリカの世論だったが、「民族浄化(ethnic cleansing)」「強制収容所」などのキーワードを使ったPR戦略により、急速にボスニア支持・セルビア批判に傾いていく。宣伝戦に出遅れたユーゴスラビア連邦も同じようにPR企業を雇おうとするものの、すでに「民族浄化」のイメージがついたセルビア人に協力的な企業はなく、「セルビア人=悪」の世論は、アメリカだけではなく国際的にも広まっていった。

「セルビア人=悪」と断言はできず、他の民族にも同様に責任がある、と本書は語る。だが、「情報戦争」で重要なのは「事実」ではなく「世論」がどう傾くかにあった。勝敗は、国際的に関心のなかったボスニア紛争に最初の段階でイメージを定着させたことで決まった、という。

紛争に関わるPR企業には倫理上問題がある反面、情報のグローバル化が急速に進む現在、PRの「戦場」は拡大している、と著者は語る。PR戦略に踊らされるメディアに対しての発言が曖昧な点に関して多少疑問は残るが、「情報」の危うさ、重さを今一度考えさせてくれる本書は、「戦場」が拡大している今、ぜひ読んでおきたい一冊だ。(さとうあき)
# by plathome02 | 2009-01-18 00:03 | メディアがつくる戦争

竹内正浩 『戦争遺産探訪 日本編』

戦争遺産探訪 日本編 (文春新書)

竹内 正浩 / 文藝春秋


戦争や旧軍の痕跡は意外と身近に残っている。帝国陸海軍関係施設、要塞、工廠、堰堤、地下壕、船渠、トーチカ、送信所、銅像、掩体壕、占領期接収建築、地図などがそうだ。本書は、そうした痕跡=「戦争遺産」を一冊にまとめたものである。

著者は語る。山野にひっそりと眠る要塞の廃墟や地下壕を眺めて、そのいいようのない美しさに息を呑んだことは一度や二度ではなかった。また、掩体壕や格納庫は戦後の物不足の中でさまざまな用途に活用された住居や倉庫など、そのたくましい生活の跡に出合うと、眩いばかりの「魅力」を感じてしまうのだという。そうした気持ちをもつのは、いけないことだろうか。

実際に自分の目で調べ、現地に足を運ぶうち、いろいろなことが見えてしまったこともあるそうだ。本物の遺構だけがもつ魔力、あるいは「魅力」に、著者はきっと気づいてしまったのだろう。だが、残念ながら、そうした興味の受け皿が存在しない。多種多様な趣向や人それぞれのいろいろな見かた、興味のもちかたがあってもいい。そう、著者は語る。

旧軍事関連の遺構探訪とは、近代史の証人としてその存在を確認する行為であると同時に、モノとしての「魅力」、それがつくられた目的を推理する楽しさをも兼ね備えている。これは、近代化遺産全般にいえるものだが、特に旧軍にまつわる遺構に際立ってみられる特徴だろう。というのも、これら旧軍関係の遺構は、他の近代化遺産のような土木建築遺産としての価値だけでなく、生と死が交錯する戦争という悲劇に立ち合ってきた遺構として、他の近代化遺産にはない特性をもっているためだ。

しかし、そうした意義は、保存にとってはかえってマイナス要素としてはたらく場合が多い。文化財に指定・登録されたほんの一部を除いて、「戦争遺産」はいつなくなってもおかしくない状況にある。どんなに頑丈と思える遺構でも、いったん破壊されると実にあっけないものだ。なくなってからでは遅い。行くなら今しかないのである。(かめやまゆうき)
# by plathome02 | 2009-01-18 00:02 | 帝国のリアル

鳥飼行博 『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』

写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで

鳥飼 行博 / 青弓社


植民地戦争に始まり、総力戦となった二度の世界大戦、東西冷戦とその代理戦争、そして国際テロ戦争など、20世紀には実に多くの戦争が起きた。それらは、各国のイデオロギーと結びつけて正当化され聖戦とされたが、しかし著者は「人間が自ら犯した愚行」と切り捨てる。では、戦争はどのように起こり、行なわれたのか。そして、どのように表象されているのかを、200点に及ぶ写真やポスター、当時の新聞記事や公式報告を引用して解説する。

戦時の写真やポスター、新聞記事などは、政府や軍の戦争プロパガンダとして利用された。表向きは国民の戦意高揚のためだが、その裏は「情報の管理」である。取捨選択した情報の中から、味方は英雄的に、敵は醜悪に表現し、国民の意思を統一させた。

表題にある写真とポスターに注目すると、例えばポスターでは、絵で自国を女神にしたり戦死者を英雄として描いたりする一方、敵国は鬼や悪魔、毒蛇や猿といった姿にデフォルメさせている。また、自国民の背後にナイフを持ち忍び寄る敵国兵士、あるいは、軍看護婦を尊敬の眼差しで見る少女などを描写した。「恐怖」や「尊敬」といった国民の感情を狙って「戦争協力」を宣伝したのだろう。

次に写真だが、絵と違い実写のため真実性があるように思えてしまう。しかし、写真の外の部分まで見ることはできないし、捏造されている場合もある。政府・軍が写真をどういう意図で撮影したか、どう利用したかはもちろん問題だが、最重要なのは、受け手がどう読み解くかだ。そう著者は主張する。つまり、メディア・リテラシーを学べと。

政府は意図的に人々を戦争協力に煽動し、多くの犠牲が出た。ならば、その意図を読み解くことが、戦争を続けさせないことに繋がる。鵜呑みにすれば戦争が続く。「総力戦の主導権は、多数の市民が握っているともいえる」と著者は書く。ふと、新聞やテレビ、ネットを見渡す。いったい、どれだけ読み解けているだろうか。(いまむらゆうこ)
# by plathome02 | 2009-01-18 00:01 | メディアがつくる戦争

愛敬浩二 『改憲問題』

改憲問題 (ちくま新書)

愛敬 浩二 / 筑摩書房


日本国憲法を「変える/変えない権利」も「変えさせない権利」ももっている私たち日本国民。著者はまず、改憲論議をタブー視はしないと前置きする。というのも、それは著者が、改憲問題について専門家から主権者国民へのインフォームド・コンセントを必要と考え、国民が選ぶ際の前提となる知識や情報を提供したいと考えているためだ。その立場をとった上でなお、著者は「今のところ改憲は不要」と主張する。

本書は、「押しつけ憲法論」「解釈改憲最悪論(明文改憲しないから解釈改憲が暴走する)」などを、改憲案の具体的中身を問わずに改憲の是非だけを論ずる「不毛な空中戦」と論断。その上で、各国憲法とその運用の歴史や諸学説を、現代日本の改憲問題にひきあてて整理・紹介し、読者に考えるヒントを与えようとしている。例えば、アメリカ合衆国における人種差別禁止。その理想は、それが「受胎」してから真に人びとの間に根付く「出産」まで200年もの時間を要している。それとの比較で、著者は、日本国憲法の平和主義が60年を経て「出産」に至っていないとしても、諦めるにはまだ早いと説示する。

他方で本書は、「そもそも憲法とは人為的で不自然なもの」という大胆な問題提起の上で、それがなぜ必要かを考察。たとえ国民が多数決で選んだものだとしても誤った選択肢――例えば、民主制そのものを破壊したナチス・ドイツのような――は排除されるべきという、憲法による「プリ・コミットメント」の合理性を主張する。さらに、現在の日本で改憲を主張する勢力に関しては、そのねらいを、自衛隊の海外での武力行使を抑止してきた9条2項の改定であると分析。9条存続のまま解釈で自衛隊容認は可能とする「温和な平和主義」などの諸説を紹介しつつ、著者がなぜ自衛隊の存在自体を容認しない「絶対的平和主義」をとるか、現実政治への「9条の効用」に触れつつ説明している。

構成もユニークだ。改憲に関して今日登場しているさまざまな意見を架空の人物設定「狩田教授と学生たち」の口を借りて提示。彼らのゼミ風景の形で展開する人間味あふれる議論に引き込まれる。(さとうかんじ)
# by plathome02 | 2008-12-27 00:02 | 9条のこれまでとこれから

高橋哲哉 『靖国問題』

靖国問題 (ちくま新書)

高橋 哲哉 / 筑摩書房


「政教分離」「A級戦犯合祀」などによって問題とされる「靖国問題」。首相の参拝によって再び再浮上したこの問題は、21世紀を迎えた今でも未だに解決の糸口が見えないまま泥沼化している。本書は、そもそもこの「靖国問題」がどのような問題であるのかを、哲学者である著者が論理的に明らかにすることに重点を置いたものだ。

第一章の「感情の問題」では、身内の死を「哀しむ」という遺族の感情が、靖国神社における「国家的儀式」を経る事により、悲哀感情が抑圧され「名誉の戦死」による「喜び」に変化していく、という「感情の錬金術」の様を描く。第二章の「歴史認識の問題」では「A級戦犯分祀」が仮に行われたとしてもそれは「政治的決着」に過ぎず、A級戦犯のみに戦争責任を押し付け、結果的に「歴史認識の深化」を妨げると語る。

第三章「宗教の問題」や第四章「文化の問題」でも同様に「靖国」を歴史的な場に置きなおしながら、それらがどの様な装置として利用されてきたかを明確にする。そして、第五章の「国家追悼施設の問題」では、それらの問題の解決策として挙げられる「無宗教の国家追悼施設」について、結果的に「第二の靖国」にしかならない、と指摘する。

それらの問題に対する著者の解決策はこうだ。現状は「非戦・平和」を掲げつつも「国民国家の軍事力」は未だ存在する。その様な状態で「非戦・平和の追悼施設」を造っても「追悼」は「顕彰」に変化する。それらを真の意味で「非戦・平和の追悼施設」にするのならば、先ずは国民国家を「非戦・平和」の方向で変容させなければならない。つまり「問題は政治である」と。

「靖国問題」をめぐる議論に存在する様々な「思い」に共感するだけでは問題は解決しない。本書は、その論点を整理すると同時に、現時点における「靖国問題」の一つの到達点を導き出している。この問題を考える上でぜひ読んでおきたい一冊だ。(さとうあき)
# by plathome02 | 2008-12-27 00:01 | 裁くことと、償うこと。

りぼん・ぷろじぇくと 『戦争のつくりかた』

戦争のつくりかた

りぼん・ぷろじぇくと / マガジンハウス


本書は、「有事法案をわかりやすく解説し成立を止めようとよびかけるネットワーク」がもととなった「りぼん・ぷろじぇくと」によって書かれたもの。これから日本で起こってしまってもおかしくない戦争という未来について、絵本形式でわかりやすく記してある。

自衛隊の海外派兵における武力行使、学校では愛国心の強制が始まり、政府によるメディア統制、ついには憲法改正によって戦争を起こす。人のいのちよりも「国」が大事になっていく。これらは全くの絵空事というわけではない。本書は、実際に定められている法律に基づいて、戦争に向かって進んでいく国家、政府、さらには私たち国民の姿を可能性の一つとして提示しているのだ。巻末には本文に関係の深い法律の条文が掲載されている。

「戦争は戦争の顔をしていません」。私たちの身近なところで、少しずつ姿を変えていく日常。気づかないうちに戦争の準備をさせられ、互いが互いを見張り始める。私たち自身が戦争をするための歯車の一つになってしまう。そういった変化に違和感をもたなかったら。国から言われるがままに従うだけだったら。「戦争しない」国であるはずの日本は、また「戦争できる国」に逆戻りしてしまうだろう。

戦争。自衛隊。憲法9条。どれもこれもテレビの向こう側の出来事のようで実感がない。気にはなるけれど詳しく知らないから、直接自分に関係ないからと思ってしまいがちだ。しかし、結局はその無関心が「戦争したい人たち」への歯止めをなくすことにも繋がってしまう。無関心であることの怖さ、思考停止してしまうことの恐ろしさ。子どもに向けて語りかけるように簡単な言葉で綴られている本書だからこそ、それが際立っているように感じる。

「わたしたちは、未来をつくりだすことができます。戦争しない方法を、えらびとることも。」平和な未来を選ぶために私たちがすべきことは何か。それは、まず「戦争のつくりかた」を知ることから始まるのではないだろうか。(きじましおり)
# by plathome02 | 2008-12-12 00:01 | 平和のつくりかた

藤崎康 『戦争の映画史』

戦争の映画史 恐怖と快楽のフィルム学 (朝日選書 841) (朝日選書)

藤崎 康 / 朝日新聞出版


私たちの娯楽のひとつである、映画。19世紀末に誕生した映画は、数多の作品を生み出し、観る者に感動や興奮などを与えてきた。そのような大衆文化であるが、しかし、誕生してまもなく、映画は戦争との「共犯関係」を生きたと著者は書く。

「共犯関係」とは何か。国家によるプロパガンダ(宣伝)映画や、「兵器」としての軍事利用。「戦争映画」という一大ジャンルの確立に、撮影技術の急速な発達。そして、戦争にスペクタクルを求める観客、などが挙げられている。本書は、そういった「共犯関係」が本格化された第一次世界大戦に比重をおき、それらの経緯と、現代戦争へのつながりを読み解く。

詳細に書こう。上に挙げた「撮影技術の発達」だが、それを育てたのは、空からの敵情偵察である。気球・飛行機という「空」の戦闘形態ができ、上空から敵を偵察、爆撃を行うという戦略が出現。その情報を収めるためにカメラが使われたのだ。カメラとフィルムの質、技術は向上したが、それは映画の面白さと同時に、戦争の「技術」をも発展させることになった。やがて現代戦争の兵器(赤外線カメラ、スパイ衛星、カメラ付きミサイル等)へつながっていく。

そのほか、プロパガンダ映画は「検閲や編集によって取捨選択して国民に見せ」「<報道>と<宣伝>を意図的に混同した情報操作」であったことや、戦場の死を「商品化」する映画やテレビは、私たちの「怖いもの見たさ」という欲求に応えるものだ、といった「共犯関係」が書かれている。誕生してすぐ戦争に巻き込まれた映画の「人生」が映し出されているようだ。

とはいえ、「共犯関係」だけが全てではない。本書の後半では、「共犯の歴史」を踏まえて、ステレオタイプを切り崩す反戦的な「戦争映画」を紹介している。著者はこう書く。「戦争映画」とは、「戦争と結んできた「共犯関係」を断ち切るような、いってみれば<贖罪>のフィルムと呼べるかもしれない」。その<贖罪>を鑑賞しよう。(いまむらゆうこ)
# by plathome02 | 2008-12-12 00:00 | メディアがつくる戦争

サビーネ・フリューシュトゥック 『不安な兵士たち』

不安な兵士たち ~ニッポン自衛隊研究

サビーネ・フリューシュトゥック / 原書房


世界有数の莫大な軍事支出を有する一方で、憲法により戦うことを禁じられた軍事組織・自衛隊。陸・海・空の三軍に分かれ各国軍隊に共通する組織構造をすべて備えていながら正式には軍隊と認められない、この「あいまいな日本の軍隊」は、26万もの人びとが「隊員」として勤務する職場でもある。

本書は、とりわけ規模の大きい陸上自衛隊(隊員数約15万人)に焦点を当て、そこに生きる兵士たちのアイデンティティの詳細な分析を通して、現代日本における軍隊と社会の関係を考察した実証研究の書である。陸自駐屯地での一週間の参与観察と約200人ものさまざまな階級にわたる隊員へのインタビューに基づく分厚い記述が、自衛隊内部のリアリティを丁寧に伝えてくれる。著者はオーストリア人の女性社会学者。違憲性などを理由に、学者たちの間で避けられてきた自衛隊研究に、著者は果敢に挑む。

著者曰く、自衛隊研究の意義は次の点にあるという。第一に、近年の日本の軍事化傾向(自衛隊インド洋/イラク派遣、歴史修正主義の台頭、憲法改正論議の高揚など)を、戦闘の際の直接の当事者たる兵士たちの目線から考えてみる必要があること。第二に、近年、民主国家の軍隊の新しい役割として評価されている災害救援活動だが、その点で自衛隊はパイオニアだということ。第三に、男女雇用機会均等法により増加した「女性自衛官」という存在に、既存の平和主義的なフェミニズムを問い返す契機を見出せるのだということ。

本書のユニークさは、徹底して現場の兵士たちのありようにこだわったことにある。サラリーマンとも皇軍兵士とも米軍兵士とも違う種類の「男らしさ」を求められる男性兵士たちと、彼らとの対比から軍事化された「女らしさ」を強いられる女性兵士たち。当然ながら、彼ら/彼女らも、兵士としての自分に悩んだり葛藤したりしながら生きている。戦争や軍隊を語るに際しついつい忘却されがちなその事実を、本書はずしりと思い出させてくれる。(たきぐちかつのり)
# by plathome02 | 2008-12-05 00:01 | 社会空間としての軍隊/戦場
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